(no subject)

あれから八年が経った。今朝、スズキはそう呟いてから今に至るまで殆どまったく口をつぐんだきりであった。僕が話し掛けようが笑いかけようが怒ろうが泣こうがどつこうがスズキは取調室の容疑者Ａの如くだんまり達磨で、ひたすら無表情(しかしどこか不機嫌そうな)を貫いた。貫き通して現在は放課後であった。溜息。

(no subject)

「自分が可愛いんだろう、所詮」
雨森の声とは殆ど対称的に、夏の末の空気は澄んでいた。瞼を六割程度下ろしたような明度、東の空は緑混じりの群青、太陽は虫の息、雨森は相も変わらずの仏頂面であった。
「矛盾してるだろ、自己愛は他人は殺せど自分は殺さない」
「辛いことから逃げている、それも究極に。これは自己愛だろう」
「人生はつらい？それは極論じゃあないか」
「かのゴータマシッダルッダも言っているだろう、一切皆苦」
「残念ながら僕は特定の宗教は信仰していないわけでね」
「俺もだよ」
雨森はようやっと暫定笑顔といった具合に表情を崩した。秋みたいな風が僕らの間を吹き抜ける。はかったかのように頭上のスピーカーがハウリングまじりに大きくないた、列車の遅れをお知らせします、
「どっちにしろ逃げた奴に何か言う権利はない」
「そもそも死人には口がないわけだけどね」
「馬鹿野郎だ」
「同意する」
「迷惑だ」
「同意する」
列車の遅れをお知らせします、

(no subject)

カフェオーレ、牛乳と珈琲は一対一でクリープをスプーン一杯、角砂糖をひとつ、当然の如くあまったるいそれを私は幾日も飽きもせずに好んで飲んだ。珈琲牛乳じゃんむしろ、と彼はよく呆れた風を装って笑顔した。
西日がきつい。
近頃は日が落ちるのがめっきり早く、こうしているうちにも、明確に、部屋の明度は落ちてゆく。じりり、濃くなりゆく頬骨の陰影が彼の顔をよりいっそう陰欝に仕立てる。
「今夜は冷えるみたいだよ」
殆どすがるみたいな私の声はひどく乾燥していた。気休め程度にもならない、空気は揺らがずひたすらに橙色であった。何故今日にかぎって烏の一匹も鳴かないのだろう。影がせまる。陰が。
(沈黙)

(no subject)

薬指、爪の上、原形不明、何やら暗示的様態のショッキングピンクのエナメルが、かろうじで、といった具合に蛍光灯を反射してきらめいた。みっともない、呟くのは第二の私。私は同調の意を示すべく、小さく嘆息した。落としてくればよかった。落としてくるべきであった。
「夜のうちに」
「でも昨日の夜は忙しかったじゃない、レポートの期限だって迫っていた」
「言い訳はよしてよ。ジェルネイルでもあるまいし、一分で終わるよ」
「知っているくせに。そもそも除光液がない」
「帰りにドラッグストアに寄ったのに？わざと買わなかったんじゃない」
「なんのために」
「言ってあげようか」
私は黙した。右手のシャープペンシルが細かくふる。第二の私が小さくわらったのが、わかった。

(no subject)

えーこはとりあえずいらついて悲しんで激昂して悲嘆にくれてそして憤っていた。２０秒置きに１時間前に別れたという元・彼氏の名前とその暴言を吐いては嗚咽し、６ヶ月にわたる目眩く甘い生活を叫んでは慟哭した。
私はウィスキーの麦茶割片手にひたすら野球中継に夢中であったが、えーこは一向に気にしなかった。ここは私の部屋で、今現在ナイターの時間帯、つまり夕飯時であったのだがえーこは一向に気にしなかった。
気にして、そしてすこし黙ればいいものを、私は枝豆をはみながら、舌打ちをした。
「すきだったのに」
「相手はすきじゃあなかったんでしょう、暗に」
「あんた、もっと、慰めるとか、さあ」
「励まそうが励ますまいが、ころっと立ち直っておんなじこと繰り返すじゃん、あんた、慰めるだけ無駄無駄」
しかし今回は、えーこにしては、長く続いた方だったかもしれない。ちゃらっちい男に引っ掛かって飽きられて然るべきタイミングで捨てられるスタイルはいつも通りであったけれど。
「ほんとうにすきだったのに」
「いっつも言うじゃない、それ」
前回聞いたのはだいたい７ヶ月前といったところ。ひどく寒かったことは、やけに鮮明に覚えていた。
「あんたにはわかんないよ」
恨めしげな言葉の尻に立ち直る寸前のほの暗さをかんじた。結局あんたはいっつもそうさ、私は声に出す代わりに適当に失笑して、わかりたくもない、とおざなりにつけくわえた。
ナイターは七回の表、ツーアウト一塁といったところであった。